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||  読売新聞に掲載された記事をご紹介いたします。
    読売新聞に掲載された
『高木東六さん、山田耕筰さん 2大作曲家長男が対談』
の記事をご紹介いたします。    
2006年12月16日(土) 読売新聞 画像
2006年12月16日(土) 読売新聞 より
東六先生と耕筰さんの息子同士の対談で「こんなエピソード」

 ザ・シワクチャーズ横浜の2006年年末合同レッスン・パーティーが12月15日、横浜市中区の横浜郵便貯金会館で開かれました。この日のゲストスピーカーは高木東六先生と親交のあった作曲家・山田耕筰さんの長男で、茅ヶ崎市在住の山田耕嗣さん(86歳)。今回の講師は、8月に逝去された東六先生をしのぶ意味もあって山田さんにお願いしたもので、パーティーに先立って、やはりこの日ゲストでお見えの東六先生の長男・高木律朗さん(72歳)と山田さんが対面、和やかに懇談する場面もありました。この中で東六先生、耕筰さん、耕筰・耕嗣さん親子と東六先生の触れ合いにまつわる知られざるエピソードも多々、披露されました。

 東京の名門校・暁星から慶大を経てエールフランスなど外資系の会社に勤め、1946年から17年にわたって横浜の船員クラブ「ユナイテッドシーメンズクラブ」の支配人を務められた耕嗣さんは、年齢を感じさせない闊達さに飾らない人柄を感じさせる紳士とお見受けしました。耕嗣さんも律朗さんも父親そっくりの風貌で、お2人は顔をあわすなり「そっくりですね。びっくりしましたよ」とお互いに感心。すぐ打ち解けた様子で、当初、テレビ局に勤めていた律朗さんがテキパキとインタビューし、耕嗣さんが記憶をたどって返答。そのうちどんどん話が弾みました。以下、おふたりの対談のなかで明らかになったエピソードの幾つかを紹介したいと思います。


 〔東六先生と宝塚歌劇団〕
東六先生は1941年から大阪宝塚少女歌劇団で指揮者などを務めたが、このきっかけを作ったのは耕筰さん。毎月1週間ずつ東京から大阪に通って同歌劇団の歌唱指導、作曲、指揮の仕事をしていた耕筰さんが「君も教えてやってくれ」と東六先生をスカウトしたのがきっかけだった。耕筰さんと宝塚の機縁は、阪急電鉄、宝塚、日劇などを手がけた実業家の小林一三さんと耕筰さんが親交があったことから。

 〔耕嗣さんのピアノの師は東六先生〕
耕筰さんは息子に音楽の指導をすることはなく耕嗣さんも音楽家の道は志さなかった。でも音楽は好きで、旧制中学生の時、自宅でピアノを弾いたのを耕筰さんが耳にした。好きなシャンソンの曲を自己流で弾いたものだが、父は「道楽でもいいからピアノをやった方がいい。ちゃんと基礎をやらないと先にいって伸びないよ」と言って、東六先生に教えてくれるようお願いし、東六先生のお宅に通って習うことになった。東六先生も「基礎が大事。指がちゃんと動くようにならないと」と言ってドレミの繰り返しの練習を始めたが、指が痛いし退屈だったので2度通っただけ。後はレッスンの代わりに近くの山王下のスケート場で滑っていた。奥田良三さんに師事して歌も習ったが、2回のみのレッスンとはいえピアノの恩師は東六さん。優しかったなぁ。人間性が好きで親しみを覚えている。

 〔校歌や社歌の作曲〕
耕筰さんも東六先生も校歌や社歌をたくさん作曲している。作曲家といっても昔は収入の糧が少なく生活は大変だった。クラシックのレコードを出しても買ってくれるのは音楽を勉強している学生ぐらい。それで校歌や社歌の作品をずいぶん手がけたようだ。2人で各地の学校での音楽指導にも数多く取り組んだが、これは後進を育てる気持ちが強かったからのように思う。

 〔2人の談笑〕
2人は東京音楽学校の先輩と後輩。東六先生がパリで音楽の勉強をしていたころ、ヨーロッパなどを旅行していた耕筰さんがパリに立ち寄り、旧交を温めた。耕筰さんは東六先生の世話でパリを探索、東六先生はこの際、先輩であり師でもある耕筰さんから「作曲家の才能がある」と生涯の道発掘につながるアドバイスを受けるなど、パリは2人にとって思い出の地。「あそこのマダムがねえ」など2人がよく耕筰さんの家で酒を酌み交わしながら談笑にふけり、よきパリ時代を楽しんでいたことを耕嗣さんは鮮明に覚えている。

 〔2人の共通点〕
東六先生は父親がロシア正教の伝道師で、幼少のころから教会音楽に親しんだ。耕筰さんは少年時代にキリスト教の印刷会社で仕事をしていたが、この時の思い出を込めて作ったのが「カラタチの花」。2人とも頑固でわがままなところがあり、「自分の世界」が強かったという。耕筰さんは「食べる、飲む、着る、ベルトひとつでもどれにするか自分で決めていた」、東六先生は「食べ物は味が濃ければ何でもよかったが、気に入らないとフ〜ンといった調子だった」。「自分を強く持っていないと、あのころはひとかどの音楽家になれなかったからかも知れない」というのが2人の息子たちの見解。

 〔耕筰さんのキャラクター〕
「今日は仏滅だから外へは出ない」「午前中、借金を申し込んでもいい日だぞ」など、とても縁起をかつぐ人だった。ドライブが好きでよく箱根や奥多摩などに出かけた。車の振動のリズムが神経を休めるのにちょうど良かったようだった。ドライブで出かけた際、メニューやはし袋の裏に五線譜を描き、曲の出だしのメロディーをちょいちょい書いていた。
(千葉 恭)
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